今回の記事は、自分とは違う立場の人の事が気になった時に読んで欲しい記事です。
内容は自分が「当たり前だと思っていることが、相手にとっても当たり前だとは限らない」というお話です。
他人と接する時や、格差社会について考える時等「自分が知らない生き方をしてきた人」と接する時に思い出して欲しいことを書いていきます。
「当たり前」って何?
当たり前、とは何でしょうか?
辞書的に答えるのであれば、次のような意味があります。
- ありふれていて、普通である。
- そのようにあるべき、という様。
例えば「今時、大学くらい出ているのが当たり前だよ」という使い方では、「普通でありふれている様」をあらわすように働いています。
「社会人として、これくらいやるのが当たり前だぞ!」という使い方では、「あるべき程度」をあらわす言葉として機能します。
今回の記事で扱うのは「ありふれていて、普通である」という使われ方をする「当たり前」についてです。
誰かの日常は誰かにとっての非日常。
意識できないくらい、自然と使ってしまう言葉が「当たり前」「普通」という言葉です。
そして、みんなが同じ様に自然に使っている言葉なのに、いう人によって「当たり前」「普通」の中身は変わります。
意識しないと気づくことすら出来ませんが、自分の日常の外側には、自分にとっては非日常的な日常を送っている人がいます。
今、この瞬間にも病院で執刀中のお医者さんがいたり、借金取りに追われる人がいたりもするかもしれません。
例えば旅行。
裕福な家に育った人には半年に1回の旅行は普通かもしれませんが、貧乏な家に育った人には人生で何度もない一大イベントかもしれません。
自分の当たり前の外側には違う誰かにとっての当たり前があります。
本当に当たり前ってなんなんでしょうね?
人は自分にとっての「当たり前」を尺度にしてしまう。
以前、ファーストジェネレーションについての記事も書きました。
ファーストジェネレーションとは、自分が家系の中で初めて大学に進む人達のことです。
生まれ育った家庭の収入とも関係が深いので、格差について問題視するときに出てきたりする言葉です。
「誰かにとっての日常は誰かにとっての非日常」ではあるのですが、「誰かの日常の当たり前」に対して自分の日常の中で育った価値観で判断しようとするのが人という生き物です。
前提としている背景や条件がまるで違うにも関わらず、自分の当たり前を押し付けてしまうことが十分に考えられるのです。
億単位の資産がある家庭で育った人が、借金で困窮した家庭で育った人を同列に扱って非難するような場面さえ見かけます。
格差という言葉は使いたくないのですが、少なくとも立場が全く違う人が集まって世の中は成り立っています。
気をつけないと自分にとっては常識で、相手にとっては非常識なことを押し付けてしまいかねません。
自分の価値観や当たり前観を尺度にしてしかものごとを捉えられないと、いつまでも本質的な話は出来ません。
自分と境遇の違い人以外とわかりあうこともできません。
まぁ、わかりあう必要があるかは別問題ですが。
他人の「当たり前」を理解するには。
他人の立場や境遇を理解して、相手の「当たり前」を尊重するために大切なことは能力の高さではなく、立ってきた立場の多さ、です。
どれだけの立場と視点でものを見てきたかによって、想定できる世の中の広さが決まります。
だから中高一貫から良い大学を出て、大きな会社に勤めている人から庶民感覚では信じられないような発言が出てきて炎上したりもします。
お嬢様育ちの知り合いは飲み会で「会社って、こんなに働いてもたったこれしかもらえないんですね」という発言をしていました。
曰く、親からクレジットカード持たされていて、お金のことは気にしたことなかったとのこと。
社会勉強のために就職しただけで結局、退職しましたが、そんな人もいます。
当たり前なんて視点によって変わるので、普遍的な価値基準ではありません。
しかし、誰しもが自分の基準での「当たり前」こそが世の中の当たり前だと思ってしまいます。
そして、意見がぶつかるのです。
他人の立場を理解するためには多くの立場で、複数の視点から世の中を眺めることが必要なのです。