どうも、うさみしんごです。
生産性、上がってますか?
効率化していかないとですよね。
もっとコミットしないといけないですよね。
はい。
どこぞの意識高いインフルエンサーみたいなことを言ってみました。
私はそんなことは言いません。
今回は効率化すべきこと、すべきでないことについてのお話。
効率化出来ることって定型のものが多い。
効率化、生産性向上。
これらの言葉のもとで進められる取り組みは、定型のタスクを対象としていることが多いんです。
問い合わせ対応の効率化。
営業の生産性向上。
生産の効率化。
などなど。
基本は結果として求めることが決まっているので、求める結果を足掛かりにすればプロセス出しができます。
プロセス出しが出来れば、実行手段の割だりもできます。
こういう結果が欲しい。
ならば、こうする。
というふうに、やることが定型化できるのです。
あとは定型化したタスクをどれだけ少ないリソースで処理できるか、というところを詰めていけば、みんな大好き効率的で生産性の高い行動の出来上がりです。
拍手、ぱちぱち。
本質の求め方は効率化しない方がいい。
例えば。
何故、生きているのか?
働くことの目的は?
今の日常の過ごし方にはどんな意義があるんだろう?
とかね。
曖昧で、抽象的で、本質的な問題は少ないリソースで片付けようとしない方がいい、というのが持論です。
どうやるか、は効率化してもいい。
でも、何故やるか、何をやるか、を追求することは効率化しない方がいい。
理由は終わりがないから。
自分が腹落ちするまで悩まないと意味がないし、複数の視点で切り込んでいかないと本質が見えてこないから。
なんなら一度腹落ちした論点でも時間が経てば疑問が出てくる。
効率化とは正反対にいる、終わりのない哲学は泥臭く、たくさんのリソースを割いて考えるしかないんですよね。
確かにフレームワークを使えば、輪郭が作りやすくなるので早く結論が出たりはします。
でも、フレームワークは目的があって作られているものが多いので、使うフレームワークの偏りは思考の偏りにも繋がります。
視点が偏る、と言ってもいいのかもしれません。
面倒くさい、でも、大切なこと。
いくら時間を使っても結論が出てこない抽出的で、曖昧な、本質に関する、哲学的なものに時間を使うのはナンセンスだろうか?
思考は時間の浪費だろうか?
むしろ、面倒くさくてリソースを垂れ流すかのごとく消費するようなことにこそ時間を使うべきなんだと思うんですよね。
面倒くさくて、なんのためだかわからない時間が大切なんです。
効率化出来ることって突き詰めて言えば、自分でなくても出来ることであって。
役割として果たすべきようなものであることが多い。
仕事とかそうでしょう?
あなたがやらなくたって、誰がやって滞りなく回るんですよ。
一方で効率化できないことって、他の誰かにはできないことなんですよ。
自分にとって意味がある、自分のためのものであることが多いから。
故に、生活を豊かにする。
そして、きちんと「自分のために生きてるなぁ!」という感覚に繋がる。
個人的には定型化出来ることを効率化して、定型化出来ないことに割く時間を増やしていく。
効率化ってそういう、そのためのものだと思うんですよね。
はい、そんな感じです。