こんにちは、うさみしんごです。
「学校の勉強は何のためにするの?」
一度は、そのような議論を耳にしたことはありませんか?
「数学の公式なんていつ使うんだよ」というやつが出てくるテーマです。
私は偏差値30台の高校を出て、同僚がそこそこ高学歴ばかりの会社に勤めています。
必要だと考えて独学してきた歴が長いのですが、自分なりに勉強を重ねてきました。
そんな立場で「勉強をする意味」についてお話がしてみたいのです。
勉強をする意味って何だ?
私の考えは大きく2つです。
- 世界の解像度を上げるためにする。
- 自分の活動可能な領域を広げるためにする。
この2点です。
それぞれについて述べていきます。
世界の解像度を上げるため。
勉強をしておくと自分が生きている世界の解像度が上がります。
より細かなものまで気づくことができて、小さな繋がりにも気が付けるようになります。
たとえばなしですが、ゲームや漫画で過去の作品の主人公がこっそり出演しているとか、実は有名な作品から影響を受けていて描写のあちらこちらに面影が見られる、なんてこともありますよね。
ファンやマニアが関わりのある全ての作品を知ったうえで作品を読むのであれば「あ、これはあの漫画の!」と小さなつながりにも気づくことができます。
そして、細かな描写に意味が見いだせると、物事をより楽しむことが出来ます。
現実世界でも同じで、自分が知らないことは認識しづらく、理解ができません。
視界の中にあることに気づくことすらできません。
勉強して、知識や考え方に多く触れている方がより細かな視点で身の回りのものを見ることができて、楽しめるのではないかと思います。
大学から建築に進んだ友達が観光地で建物の骨組みを見て楽しそうに騒いでたりもしました。
知見のない私には理解出来ませんでした。
自分の活動可能な領域を広げるためにする。
勉強をすることで活動可能な領域が広がります。
なれるものや出来るものが増える、ということです。
人が行動するためにはいくつかの要素があります。
- 対象を認識できていること。
- 過程が理解できること。
- 実行可能な能力、技能があること。
- 実行可能な環境にいること。
たとえば、英語。
英語という言語の存在を知っていて、英語を習得する流れがなんとなくでもイメージ出来て、言語を扱えるだけの体機能があって。
かつ、英語を習得するためにやろうとしている行動が実行できる環境にいる。
ここまで揃ってようやく、行動が出来ます。
ジャングルの奥地で生まれて、英語という言語の存在を知らずに、英語の存在に触れることさえできず、発話の機能を失っている人がいたとして。
かつ、部族の掟で外界との交流を一切遮断されている、としたらどうでしょう。
英語は習得できませんし、そもそも、英語を習得するための行動が取れません。
行動は現実に影響を与えます。
能動的に自分が置かれた環境を変える手段です。
しかし、行動の対象を知らなければ、知り得なければ、偶然に頼らないと行動すら起こせません。
学ぶことは、知ることです。
知ることが出来れば、アプローチが出来ます。
アプローチができれば、近づき、身につけることができます。
近づき、身についたことを足がかりに更に自分が接する世界を広げていくこともできます。
学び、知ることは認識出来る対象を広げて、アプローチの手段を増やし、活動出来る領域を広げることに繋がります。
引きこもるなら勉強はいらない。
「勉強をしなくていい環境=勉強をせずとも良い環境」です。
おおよそ同じ範囲から出ずに、新たなものを受け入れず、見知ったものの中でだけ生きていくなら勉強は不要です。
あるいは誰かに与えられた変化をただ享受するだけの暮らしでも勉強は不要です。
自分から求め、成すことを望むなら勉強は必要です。
世の中にはどんなものが存在するのかを知り、自分は何を求めるのかを考え、どのように向き合うのかを求め続けなければなりません。
勉強は能動的に、自分の意思で生きる人ほど重要で必要なものだと思います。